´ω`)ノ ども、週刊お茶どうのちゃお♪です。おはようございます。
今朝の瞑想での気づきについてちょっと書いておこうかなと。
表題だけ見たら、絶対勘違いしそう(笑)な、今日のブログ
慈悲の瞑想とかそういうのじゃないです。
瞑想中、いつもの如くいろんな形の丹光?が見えたあと、ふと炭鉱だか、鉱山だかで働いている映像が視えたんです(丹光視た後なだけにw、というダジャレではなく、偶然ですゾ)
んでその映像がぼくの前世なのかそうなのかというのは、全然わからず。別にそこに意識はないんですが、まぁ、その炭鉱だか金鉱だか銅鉱だかなんだかわからない、近代だか中世だかもわからないんですが、そこでもいろんな生活があるわけで、
生活の中身はよくわからんのですが、
生活したり、
仕事一生懸命だったり、
他人との笑いあり、軋轢あり、
鉱夫同士のマウントの取り合いとか、
そんな日常生活があるような感覚がふと視えてですね
(瞑想中ですよ。詳細はわからんがそんな生活があるような感覚?)
んで、それをフォーカスしようと一瞬思ったわけですが、
瞑想中ですから、
臨済じゃないんですけれども、やっぱぼくの場合はそういう映像から離れていく
ほうにどうしても行ってしまうw
スピ好きな人はどうしても詳細を見入っちゃうよね。
んで離れながら思ったのがですね。
そういう日常の生活の詳細は、どうでもいいってわけじゃないんです。
どうでも良くはなく、そういう日常はしっかり向き合いながらもですね、
大事なのは、その生活の中で、
いかに調和を取るような自分でいたか
人を思いやったか
愛を表現したか、
軋轢があっても、自分を殺さず、しかし相手も活かそうと努力したか、
人生楽しんだか、
鉱夫の生活の詳細はどうでも良くて、そういうことのほうの意識を遠くから
(そうねぇ、1キロ位離れて上空から見てる感覚とでも言おうか)
見ている感じでした。
でもそれは瞑想中の心地よい感覚のなかで、見ている感じです。
映画を見るように、その鉱夫の生活にどっぷりべったり張り付いて、ハラハラしながら見入るわけではないです。
あくまで「眺めながら」生活の詳細はどうでもよく、
愛を表現し愛を学んでいるか?
という、クッサ!って感じですが、要するに一言で言うと、そういうところに関心を持ちがなら、瞑想中、瞑想に浸りながら、一方で、意識の一部は、その坑夫の魂の広がり(成長?)を眺めている感覚でした。
なるほど!
守護さん((⌒▽⌒)←)とかガイドの感覚ってもしかしたらこういう感覚なのかもしれない。
いわゆる亡くなったおじいちゃんおばあちゃん的な守護霊?はそうでないかもしれん。
あまりにもハラハラと意識的にべったり離れられずに見守ってしまうのでw
だから、そういう感覚ではなく、ちょっと離れたところから、しかししっかり見守るって感じは、こうなのかも。守護さん的な感覚。
その生活とか魂との意識との距離を、自在にコントロールできる感覚。
あ、観自在(かんじざい)菩薩ですな!
瞑想あけて、そんなことを思いました。
過去生だかなんだかよくわからんが、べつに過去生じゃなくとも、
いまの生活でもそれは言えるわけです。
しっかり日常の生活を生きながらも、
日々向かう詳細との距離を自在にコントロールできるって、楽だなと。
瞑想は、そういう感覚も養えるわけです。
ドラマに埋没せず、大切なことが視えるというか。
まぁ、なかなか難しいけどねw
毎日の瞑想や座禅はすごくおすすめ。
んじゃノシ
ちゃお♪