ども´ω`)ノ 週刊「お茶どう」の時間ですw
さて、表題の件。
瞑想中に見えたイメージも、守護さんのメッセージも、神秘的体験も実はどうでもいいという、ありがたいのだかありがたくないのかよくわからないけど、瞑想や座禅好きには大事な話
先週、ヨガ教室の最後にみんなで瞑想をする時間があるのだけれど、ある御朱印女子が瞑想後のシェアでこう言ってたんだ、
「今回の瞑想では何にも、なーんにも見えなかった。浮かばなかった。みなさんのようには浮かばないです」
って。
工工エエェェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェエエエ工
なんか誤解している!!!
「瞑想中に何にも思い浮かばなかった(シュン)」
ってゼッタイ瞑想を誤解している(ヾノ・∀・`)
みんな瞑想後のシェアで
こんな宇宙的体験した
こんな前世が視えた
こんなハイアーセルフにあった
観音様マリア様が見えた
妖怪がいた
とかそういうこと言うから、瞑想がそういうのを見る場と勘違いしてしまったんだと思う。
じつはそういうのはどうでもいい件。
そういう体験をありがたがるから、「瞑想するとこんな神秘体験が訪れますよ」なんてセールストークに騙されて、高額スピリチュアル商法にみんな引っかかってしまう。
瞑想中に体験するそういうのは、じつは副作用とも言うべきものでさ、もちろんそういうのをスピスピ体験として楽しんでもいいのだけれど、
それが瞑想の目的(それが瞑想体験の重要な部分)となっては本末転倒。
昔中国(唐)で、黄檗希運って禅僧がいたのだけれど、その人?がこんなこと言ってるそうだ。
仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。
つまり、座禅中に、お釈迦様、イエス様、観音様、お父さんお母さん、守護さん、前世の自分、となりに妖怪が座ってた とかそういうものが浮かんだら、そういうのも殺して(かき消して)、イメージにこだわらず囚われず、流して(殺して)、自在な空観の意識で在りなさい
とまぁ、そんな感じの意味です。
それが禅であり、瞑想の究極の形というか、型式化してしまうと、また、真理系スピリチュアルセミナー主催者のネタになってしまいそうですがw
まぁ瞑想の目的というか、空(くう)ってのはそういうことです。
いやね?
瞑想中に聖者が現れてさ、なんかメッセージをくれたり、
前世が視えたとして
それを殺せってのはね、ぼくは言い過ぎだと思うw
だけど、ソレに囚われて、それが目的になって、
「皆さんのようにイメージが浮かびませんでした」って嘆くのは、完全に違うです
(ヾノ・∀・`)
むしろなんにも浮かばず、その無の中で、無の意識で、ただただ在る、気持ちいい状態でそこに在りつづけたってのは、
お坊さんもみんなその意識状態を目指して瞑想するもんなのになぁ
ぜったい勘違いしちゃってる( *´艸)
って思いながら聞いてました。
いやもちろん副産物を楽しんでスピスピ談義に花を咲かせるのはそれはそれでぼくはいいと思うのだけれど、
ぼくは瞑想中に見えたイメージとかそういうのはすぐ忘れてしまうし、重要視しないくていいと思うなぁというかむしろすごくいい瞑想体験になってたって自覚してないんだろうなと。もったいない。
自我っていうのは特別さを求めてしまうものなんでしょうね。
ぼくは思うのだけれど、
そういう特別さを求めている自我を捨てろとか、自我を消せとか「私はいない」が全てとかってことじゃなくね
(お前はなんで自我を体験しにこの世にその形態でそんざいするか100年位地獄で考えてきなさいと言いたくなる)、
そういう自我を自覚できて、それと上手に付き合えるようになると、人生はめっちゃラクに流れ出すと、そのように思います。
真理を体験することが大事。究極体験こそゴール。 とか、そういうスピリチュアルセミナーでも無駄に洗脳されなくなると思いますよ。
他人の神秘体験を無駄にうらやましがることもなくなると思う。
セミナーとかインドとか行かなくても、「何ものにもこだわらない瞑想」で十分だよ。
まぁ、霊が見たいってのはぼくの願望ですがw
んじゃ!
ちゃお♪