´ω`)ノ ども。週刊お茶どうのちゃお♪ですおはこんばんちは。
さて、今日は里の行の一番の修行、人間関係。
会社でね、あるおばちゃんがさ、障がいのある人に辛くあたったわけ。
なんで何回言ってもできなの?何回も言わせないで、とかさ。
それをずーーーっとずーーーっと毎日毎日言ってたらしいんだけれども。
それでね、ある日、言われてる本人が仕事中に体調不良という理由で帰っちゃった。
で、それだけでなく、周りの女の子も「会社辞める」言い出して、それでおばちゃんの所業が発覚したんだけれどさ。
会社辞める言われて、よくよく話を聞いたら、おばちゃんが障がいがある人に、グチグチグチグチ辛く当たってたってのがわかったんだけれども、
それを女の子が、その嫌な場面を見てらんない、といって「辞める」言い出してね。
まぁそんな事があったわけです。
これね、ハラスメントなんだよな。
昭和の人ってピンとこないかもしれないけれど、できない人に「なんでできないんだ」ってグズグズいうのって立派なハラスメントなんだよ。
できないなら教えるしかないわけ。一回言ってもできないなら何回も教えるしかない。
そんで、障がいがある人ならなおさらだよね、毎日、ここはこうしてね、って何度も何度も言うしかない。
だって忘れるんだもの。仕方ない。
でもそうやって障がいのある人を社会的に支えないと。
だから健常者から見て、作業の能力が劣るように見える人は、それはもう織り込み済みで採用しなきゃならんのです。社会的にマトモな会社は。
(言っておきますが、人間として劣るというわけでは絶対にないのですゾ)
でも思うのだけれど、健常者だって忘れっぽい人はいるし、年を取ってきたらただでさえ目は悪くなるし、重労働だってできなくなるし、物忘れも多くなるよね?
それでそのことで何度も何度も威圧的に文句言われたらそれは言われてる人はもちろん、周りの人だって嫌な気分になる。
でもそういうハラスメントする人って、自覚がないんだよな。
文句言われるような人の、作業の出来なさはもう、会社としては織り込み済みなので、むしろ、チームの雰囲気を悪くするような人のほうが、ずっと悪いんだよ。
文句言ってる人は、自分のほうがよっぽど悪いという自覚がないわけ。
ぶっちゃけ
「あなたの言いたいことはわかる。でもあなたがやっていることは、彼らの10倍迷惑」と、こう言いたい。
まぁそれも良くないので、言いませんが。
コンコンと説明するしかないんだよね。文句言ってる人に対しても。
で、上司が朝礼でこう言ったの。
うちの会社はハラスメントは許しません
って。
( ゚Д゚ノノ"☆パチパチパチパチ ( ̄0 ̄)/ オォー!!よく言った!ってぼくは思いました。
こういうことを、昭和あるいは平成では許されていたものを、もうそういう時代ではないってことで、意識を改めていくということは、とても大事なことだと思う。
和を以て貴しと為す
一般には、「日本書紀」が伝える聖徳太子の定めた十七条憲法の第一条としてよく知られています。しかし、これに先立って「礼記―儒行」に「礼は之和を以て貴しと為す」、「論語―学而」には「礼は之和を用って貴しと為す」とあります。なお、儒学の「和」は、名分を守り秩序を重んじる「礼」を行うにあたって、やわらぎ睦み合うことの重要性を説いたものですが、十七条憲法の「和」は、そうした儒学の「和」の概念を超えて仏教の和合の精神の大切さを説いたものとされています。
調和・協調性が重要ですと、そういう言葉です。
日本書紀自体の真偽性が定かではないですけれども、まぁこれが史実だと仮定すると、日本最古の憲法で、
聖徳太子がこれを第一条に持ってきたということは、当時の朝廷内で対立、いさかいがあったんでしょうな。
まぁ、人にはそれぞれ得意不得意や、ある作業について、能力の差ってのは出てきます。
それが人間ですから。
ちなみに魂にも差異はあります。
「皆一つの同じもの」と言っても、それは、たとえば太陽光が、プリズムでいろいろな色に分解できるように、神様も彩り豊かな、無限の可能性の集合体なんですな。
そして神という状態は、それが完璧に調和している状態なんですゾ
で、現世では、それら彩りが分離しているように錯覚された世界。
だからまぁ、この現世の人間界は、それ(調和)を学ぶゲームと思って、多少合わない人でもなんとか折り合いをつけて、やっていくのがぼくはいいと思うのです。
つまり、合わないなぁって人同士でも、衝突、争いという方向ではなく、まぁなんとかぶつからないように工夫するということも、大事な学びなんですな。
とは言え、まぁ現実世界では戦争もあるし、なかなか難しいのですけれど(人間なので)それについて努力してみるということは大切だなと思った次第。
んじゃ( *`- ω -´)ノシ
ちゃお♪