「とりまお茶でもどうぞ」

日頃思ったこととか

粘着性のある批判心とか敵対心のような炎は「手放す」のが一番だと思う

 

最初は楽しかったんだ。

 


共通の話題も豊富だし、話も盛り上がった。

 


いつからか、その人は共通の知り合いを批判し始めたんだ。

 


最初は、へーと面白く聞いてた。

 


でもその批判は止まることがなかった。

 


数日が数週間、そして数ヶ月続いた。

 


ぼくは批判されている人が、それほど長期に渡ってずっと批判されるような人だとはどうしても思えなかった。

 


そりゃ誰だって欠点や、人と合わないところはある。

 


けれど、延々とその人を標的にして悪口を聞かされることにうんざりし始めたんだ。

 

 

そしてそれが1年半以上続いたんだ。

 

 

きっとその人は、一度敵認定したら延々とロックオンした人の悪口を話題にすることをエネルギー源として日常を生きているのかもしれない。

 

 

もちろんぼくは標的の人をかばう発言もしたし、それほどキライならもう忘れなよ的な発言をアドバイスしたりした。

 

でもそれは気に入らないようだった。

 

 

そしてぼくはそういうことが日常の一部になるのが嫌だったんだ。

 

 

「ここでその人から距離をおいたら、今度はぼくが標的になるのだろうな?」というある種の恐怖を抱かざるを得なくもなった。

 

 

でもそういうある種の恐怖で、その人と距離を置くのをためらうとしたら、それはすでに恐怖でぼくがコントロールされているのと同じだろうという気もした。

 

 

恐怖っていうのは違うかもしれない。

 


でも、無意識に他人を雰囲気でコントロールしてしまうようなこと、されるようなことはぼくは好きじゃない。

 

 

人のためらい感とか罪悪感を遣って人をコントロールする宗教や、スピ指導者のズルい論法もぼくにとっては同じこと。

 

 

毒親が子供を情やしきたりで子供をコントロールしようとするのも同じこと。

 

 

なので、その人が他の新しく出来た友だち?に夢中になってる時に、

これ幸いと、ぼくはその人から距離を置くことにしたんだ。

 


2週間くらいはこれで距離が空いた。

 


ただ、その人が距離を置かれていると気付いた途端、ツイッターやらメールやらでぼくはその人からいろんなご批判を頂いたようです。

 


いや全部読まずに廃棄したんだけれど。ツイッターなんかは目に入っちゃうんだけどね。

 


そしてツイッターのアカウントも消し、メールアドレスも変え、有料のメールアドレスも契約を変えて変更したわけです。

 

 

でもね、その人は標的にすると、延々と批判を繰り広げてそれを数年続けるくらい諦めが悪いと言うか、スッパリ手放すことができない人なんです。

嫌いな人、毎日悪口、批判を言いたくなる人のブログを毎日チェックしに行くってちょいと病気というか、狂気じみてる。まぁネット界隈ではそういう人多いかもしれないけれど、ぼくはそういうのは全然好きじゃないしされたくもない。

 

 

手放すことって大事。

 

 

その人がぼくのブログを見るたびにぼくを思い出してはこりゃマズイですゾと思い、数年続けたブログもあっさり消しました。

 


こういうのはぼくはバッサリいきます。

 


新しいブログにこっそり内容も移転してたんだけれど、そのブログも見つかっちゃってね。

 


また直メールでご連絡をいただきました。読まずに廃棄しましたが。

 

 

なので、移転先のブログも全部消して、もう過去のブログの内容を引っ越しすることはやめにしました。

 


その人がぼくを思い出すたび、粘着性のある感情の炎が燃え上がるだろうし、批判の感情の渦潮に自分を見失ってしまうだろうということで。

 


ぼくもそのたびにその黒い念を向けられるのもよろしくないし。

 

 

ということでね、昔書いてたブログとはあっさり決別したわけです。

 

 

まぁ期を同じくして仕事も生活も一変しちゃって、住所も変わったし。

 

 

その人、いまは良い精神状態で生活されているといいなぁ と、ちょいと思い出したので、こんな話書きました。

 

 

人の悪口ってたまには楽しいけれどwずっとだと自分を貶めることになります。

 

 

そういうのは自分の魂というか、オーラのようなものを蝕んでいくと思うんです。

 

 

ホントですよ。

 

 

手放すことって大事です。

 

 

 

んじゃノシ

 

 

ちゃお♪