「とりまお茶でもどうぞ」

日頃思ったこととか

「自分が変われば世界が変わる」話

 


´ω`)ノ ども。今日も仕事が楽しい週刊お茶どうのちゃお♪ですこんにちわん。

 

スピでよくある「自分が変われば世界が変わる」話。

 

こういう話に劇的なものを求めがちだけれども、そうではない話です。まぁ劇的に変わるんだけれどもw

 

 

でも劇的なものを求めている人には、「コレジャナイ感」激しいと思う。

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コレジャナイ感ー例えばおばあちゃんがこれ買ってきたら泣ける



 

さて、

 

 

ウチの奥さまは、わりと飽きっぽい。

 

仕事も、主婦も、飽きっぽいw

 

そして、「私は何のために働いているんだろう?」「私の家事は役に立っているのか?」「やりたいことがない」と、時々、何かに飽きたときとか、イライラしているときにしゃべる。

 

こんな話題が奥さまの口から出たときは、たいてい精神がちょっとヘンになっているときだw

 

我が家ではコレを「〇〇(奥さまの名前)さん病」と称している。

 

奥さまの疑問(というか世界に対する愚痴というか)への答えはわりと明確なんだけれども、(つまり、生活のために働いているし、家事のためにみんな大助かりだし、やりたいことなんて日常から見つけるものなのである)、どうも自分を見失っているときは、こういう思考に陥りやすいみたい。

 

要するに、しんどいとき、「やりがいが見いだせない」ってことなんだと思う。

 

やりがいのある仕事を見つけようと思っているから、そういう思考にハマってしまうんだな。

 

そしてぼくを羨ましがるんだよね。

 

 

 

川* ̄ー ̄) アナタは何やっても楽しいもんね!

 

 

 

当てつけっぽくおっしゃるがw、そんなこと言われても、ソノトオリ!ぼくはだいたい何をやってるときでも楽しい。

 

 

 

ここで「自分が変われば、世界が変わる」というお話をしようと思う。

 

 

 

やりがいっていうものは、見つけるというより、見出す方が手っ取り早いのではないかと。

 

引き寄せの法則」で自分のやりたいことを引き寄せるなんてことが、スピでは流行っているけれども、

 

もし、「やりたいこと」があるのならそれは結構なことで、ソレに邁進すればいいし、あるいはスピで流行っているように、引き寄せの法則で一生懸命引き寄せてもいいと思う。

 

 

でも、スピブログで質問される質問に、

「自分のやりたいことが見つからない」

って話がよくあるし、ぼくも何回もそういう質問をされた。

 

 

ぼくの答えは、

「別に無理して見つけなくていいじゃん」

「今を楽しめばいいじゃん」

って答えることが多いのだけれども、そういう人は日常がつまらないか、もしくはしんどいんだろう。

 


だからこそ「ここではないどこか」にそういう素晴らしい何かがあるという話に飛びついちゃうし、
「今ではないいつか」に思いを馳せていろんなワークをしたりするんだろうと思う。

 

でも、別に今の日常って、自分が思うほどひどいもんじゃないと思うよ。

 

 

ぼくはお花畑だからそう思うんだろうか?

 

 

昔、奥さん子供にも大切に扱われていないし、仕事はリストラに遭うし、ということで、スピに飛びついて、いろんなことをやってた人がいたのだけれども、

 

ぼくがその人の話を聞くにつけ

・・・( ̄  ̄;) うーん「それほどひどい人生じゃないと思うゾ・・・
自分が家族をそんなふうに扱っていれば、そりゃそういうふうに扱われるよね。むしろその卑屈な思考で世界を見ているから世界がどんよりして見えていると思うんだな」

 

なんて思ったもんだ。

 

少なくとも、ぼくがその人の体に入り、その人がぼくの体に入って人生取りかえっこするとしたら、ぼくならそんなにひどく自分の人生を悲観したりしないと思ったもんだ。

 

結局、その人のマインドが、自分の人生を卑下しているわけだよね。自業自得というか。

 

業(カルマ)がマインドとすれば、まさに自業自得(自分のマインドや思いグセで、今の自分が置かれた状況を享受している)わけです。

 

そして「スピワークやったり、スピ指導者のブログ毎日見て悟れば人生が素晴らしいものになる」と勘違いしちゃうんだね。

 

今ここを生きれば、悟り体験、神秘体験なんて、そんなんどーーーでもいいシロモノなんだけれども。

 

あとはね、ツインソウルを探し続けている人とか(笑)

 

だったら、スピワークなんてやってないで、さっさとツインソウル探しに邁進したらいいと思うのだけれどもw

 

今の貴方にふさわしい人がちゃーんと寄ってくるよw 

とぼくなんかは思う。

 

「自分の周りにいる、この人たちではない『どこかにいる誰か』」 を追い求めるというわけですな。

 

今している仕事が嫌で、天職を求め続けている人もいる

 

いましている仕事を精一杯してみて、うん。もういいかな?って思ったときに、ポッとその仕事(自分にとっての天職)に呼ばれると思うよ。

 

でも今している仕事を楽しめれば、ぼくはそれでいいと思うんだよね。

 

別に運命の仕事を求める必要ないんじゃね?って。

 

つまり、「ここではないどこか」「今ではないいつか」の思考って、どうもぼくは好きくないわけですよ。

 

今自分に必要な全ては、いま自分が体験している経験に集約されているし、と同時に、自分で引き寄せた結果でもあるわけです。

 

いまの状況に不満タラタラで、グチばっかりならば、

「あさりうどんが良かったのに・・・」って、天ぷらうどんにグダグダ文句を言いつつ不貞腐れながら食べているウチの姫と殆ど変わらない「お子ちゃま思考」なんです。
(もちろん姫にはぼくの雷が落ちましたw)

 

ぼくはいつも楽しいので、グチを言っている人の気持ちはぶっちゃけ良くわからない(もちろん上司の悪口はたしなむ程度に他の社員さんとグチしゃべるw)。

 

仕事がしんどいときも、「このしんどさをぼくは楽しんでいる」と思ってしまう。

 

流れ作業で、不良品を抜く作業が数時間続けば、「いかにラインを止めないで、スムーズに生産を終了させるか」というゲームを(ぼくの脳内で)始めてしまう。

 

不機嫌な上司がいれば、「なんて話しかけて、うまく会話をスムーズに回答を引き出すか」なんてゲームを始めてしまう。

 

どんどん覚えるのが楽しいし、部分を理解し、そして会社全体、業界全体を把握していく自分が楽しい、楽しいから頼まれた仕事も積極的にやってみる(別に間違えても命取られるわけではないので、どんどんやってみるべし

 


どんな状況でも楽しんでしまおう。とそんなふうに感じてしまうくせが、たぶん10年前くらいからついてしまった。

 

まぁだからといって、つまんないと感じて、ぜんぜん楽しみのネタが見いだせないのなら、「その仕事を続けて楽しみを見い出せ!」などとは言わないし、思わない。

 

転職したらいいと思う。ぼくも過去2回、職を変えてるわけだし、今の若い人はそれほど転職に躊躇しなくなったんじゃなかろうか?

 

それはいいことだと思う。

 

ひどいブラック企業の奴隷である必要は、サラサラ無いのではないか?とぼくは思う。

 

さて、そしてぼくが以前、自営業をやめるときに

 


「うん。もう十分堪能したかなぁ」「ちょっと就職活動しようか」と思って最初に対面で接触した企業にそのまま就職してしまったw

 


だけれども、コレがドッコイ、その仕事をしてみると楽しいのなんのってw

 

たぶんだけれども、『職種なんてなんだって良かった』んだろうと思う。

 

偶然、天職に巡り合った運命の仕事!って意識はない

 

もちろん、「どんな仕事だって運命の仕事」だと思うんだけれどもね。

 

でもぼくは「その仕事に呼ばれた」「やってみたら楽しめた」。たぶん結果として、ぼくに必要な体験の一つなんだろう。と、そう思うだけ。

 

楽しむネタなんて、おそらくどこにでも転がっている。

 

おそらくじゃなくて確実に。

 

だから、守護さん的には 

(⌒∇⌒) 「自分が変われば世界が変わる」 となるわけです

 

自分が変わったら、なにか特別の自分にとって素晴らしい仕事に出会える というのとは違う。根本的に違う。

 

そうではなくて、


自分が変わると、世界が俄然違った様相を呈してくる。全部自分に必要だったし、自分が楽しめるネタはすべて揃っているし、

 

 


これを禅語で表すと

 

 

日々是好日(にちにちこれこうにち)

 

 

なわけです。

 

いま、自分が日々直面する出来事はすべて守護さんからの、つまり自分自身(ハイアーセルフ)からの、

 

 

公案(こうあん)

 


と言っても差し支えないです。

 

そして、自分がいまここに在って、選択することはすべて、その守護さんからの公案の回答なんですよ。

 

日々めぐりめぐる事象はチャンスなわけです。


いまの自分が置かれた状況に不満点をたくさん見出すか?
それとも
楽しめる点をたくさん見出して、さらには不満点も楽しめるネタに変えていくか?

 

ソレだけでも世界が変わるわけですよ。

 

まぁたぶんね、ドッカーンっていう神秘体験のような体験をすると、そういう見方が容易になるかもしれないとは思う。

でもそれは必須条件じゃない。

ぜんぜんない。

 


勘違いしている自称悟り体験者みたいな人も多く見かける。体験を多くの人に語ることによって、勘違いのさらに勘違い(勘違いの伝言ゲームみたいな)して「悟りの重要性の勘違い」でビジネス化してしまう人もいると思う。

 

そういうの見ると、「悟り体験」なんてクソより役に立たないばかりか、マインドが稚拙だと、悪影響が大きすぎるんじゃないかな?なんてぼくは思う。

 

さて、長くなったのでつづく

 

 

んじゃノシ

 

 

ちゃお♪