「とりまお茶でもどうぞ」

日頃思ったこととか

瞑想の副作用(笑)


´ω`)ノ ども週刊お茶どうのちゃお♪です。

 

先週は久々に仙台のヨガ教室に参加してきたのですけれども、そこで聞いた興味深い話。

 

ヨガの先生(Mちゃん)から聞いた話なのですが、ということは、ぼくから見たらヨガ友だちの知り合い(まぁ他人とも言うw)の話。

 

Mちゃんが、別の教室で、ヴィパッサナ瞑想の話をしたそうな。

 

ヴィパッサナ瞑想にもいろいろあるらしく、ぼくは

「自分の行動をすべて解説していく=私は右足を上げている、私は右足を前に出している、私は右足をおろしている」 

みたいな

「動きを解説していくヴィパッサナ瞑想」を教えているお寺で、ヴィパッサナ瞑想を体験してきたことがあるんですけれども、

 

どうやらMちゃんが紹介したのは千葉に道場があるヴィパッサナ瞑想らしく

 

1週間だか2週間だかずっと道場に泊まり込みで、何もしゃべず瞑想し続けるという、いかにもぼくが好きそうな瞑想らしいw

 

んで、Mちゃんのヨガの生徒さんがその千葉のヴィパッサナ瞑想に行ってきたんだと。

 

そうしたら、すごく良かったそうな。
食事中は他の人と一緒に食事を摂るらしいのですが、何日もずっと瞑想を続けていくと何も喋らなくても食事中、会話がなくとも、相手のことがわかるようになるんだそう。

 

いや、思いやれるようになるというべきか。

 

思いやれるだけなら、何も瞑想せずとも日常的にあるよね?電車で席を譲るとか。

 

それだけじゃなくて、相手のことが感じられるようになるという意味。

 

 

つまり、感性が上がるんですな。

 

 

うん、わかる気がする。


瞑想って静寂に身も心も任せるってところがある(それだけじゃないけど)。


必ずしも静寂である必要はないんだけれど、静寂に身をおいたほうが瞑想状態には格段になりやすいだろうと思う。


そして、ずっと静寂に身をおいていると、身をおいている自分から離れ、自分というものが消える状態が訪れる時がある。


まぁ消えなくてもいいです。自分の考えから離れるだけでもいいです。

 

んで、それが心地よいわけですね。

 

なんの意味があるの???

なんて考えてはいけません。

 

意味から離れ、「ただ在る」状態になるのが瞑想なんですから。

 

で、静寂の中に身を置き、そこで感覚が研ぎ澄まされると、感性が上がるわけです。

(そうじゃないときもあります。自分から離れて、ふかーい意識の深層にどっぷり浸かるときなんかは、起きているけど眠っているような状態になるときもあります)

 

で、そういう静寂に慣れると、外界の騒々しさから離れることで、静寂の中で
「声にならない声、言葉にならない言葉」
が聞こえてくるようになるわけですな。

 

それは単純に、守護さんの意図(声にならない声であり、言葉にならない言葉)が感じられるようになるということでもあるし、

 

エネルギーを感じられるということでもあるし(別に抽象的じゃなくとも耳鳴りのような音が聞こえたり、手先がピリピリと感じられたりでもいい)、

 

そんな状態になるわけですな。


そういうのを感じたくて瞑想するっていうのはどうかと思うけれども、ずっと瞑想をしていると、そんな状態になりやすいわけです。


副作用みたいなもんですw


感覚が鋭敏になるっていうのは、だからあるわけですよ。


例えば、ダイエット中とか絶食中に、ちょっと何か食べるとダイレクトに化学調味料の味がわかったり、缶コーヒーとかに入っている乳化剤がすごく感じられたり、あるいはコメの甘みが感じられたり


いろんな種類の味覚を剥ぎ取っていってるような状態になるでしょ?


それに似ているかもしれない


あるいは別の例えをすれば、眠る前になって何もかもが静まったときに、

心臓の鼓動が感じられたり(それはずっと動いていた)

時計の秒針の音がやたら感じられたり(やはりずっと時計は動いていた)、

耳鳴りのような音が聞こえたり(これもずっとしていた音です日常に紛れていただけで)

あるいはエネルギーの粒子が見えたり(ぼくはわりとこれが感じられる)


そういうことですわい。


いろんなものを一時的に捨てている状態。


捨てるのもったいない!って人は、いろんなものをいっときだけ、脇においておいて、素に戻ってる状態。


これがね、わりと健全なんです。


そんときは人間という殻ですら、捨てている(脱いでいる)状態なんですよね。

 

瞑想はいいゾ


すごくいいゾ!

 


んじゃノシ

 


ちゃお♪